反省するこの頃
世の中はマス(大衆)の力によって動いている。
技術がある程度成熟してくると、多くの製品は、その存在をかけた本質が優れているかではなく、「ユーザーにとっての利便性」、「ユーザーの一時的な好み」あるいは「広告展開」で評価されているように思えてならない。それは正しいことでもあるので、それに対して批判のみをしたい訳ではない。例えばユーザーの求める「利便性」を満たすべく企業側は努力するので、それによって技術は進歩するのだろう。
極論を言えば、売れたものが善であり、売れないものは悪だ。
ある知人の芸能ジャーナリストは「いいCDとは売れたCDのことだよ」と結果論を言う。
確かにそれは当然のこと。売れない人のCDはやがて作れなくなるのだ(勿論、僕や僕の仲間たちが関わっているCDだけが優れているなどとはこれっぽっちも思ってないし、近年ヒットした曲の中にも個人的にも評価するものはたくさんある)。
では、工業製品としてのレコード(CD)はどうだろう。
SPからLPになった時に、人々は数分でレコードの盤面をひっくり返さなければならない「不便さ」から解放された。そしてLPからCDになった時にも、およそ30分で盤面をひっくり返さなければならない「不便さ」から解放された。定期的なレコード針の掃除も針交換も必要が無くなった。しかもCDはLPに比べれば省スペースで保存が出来るし、基本的には何度聴いても音質は劣化しない。
そして様々な面倒くささが無くなった分、盤自体の扱いもお手軽になったので、「何かをしながら」でも、そう、例えばコンサートでは不可能な「食事をしながら」でも、「お酒を飲みながら」でも、「会話をしながら」でも音楽を楽しめるようになった。少ない自由時間の中で、誰だって日頃の疲れを癒したいし、ストレスを発散させる目的で音楽を聞くことは多いはずだ。
ただ「利便性」が優先されすぎると、どうもそのものが持っている本質的な「価値」が下がるように思えてならないのは僕だけだろうか。現代のような便利な世の中になっても、ユーザー側の「努力」も時としては必要なのではないだろうか。もし「簡単に理解出来る」うわべだけの心地良い言葉、魂のこもってないメロディばかりがもてはやされ、人の世の楽しいばかりでないシリアスな面や、より深い表現を追求する精神が無くなったとしたら、進歩が無くなり、やがて音楽から感動は失せてしまうかもしれない。
オーディオ・マニアのための雑誌に「Stereo Sound」というのがある。
毎号、レコーディング・エンジニアの大御所にしてオーディオ評論家の重鎮でもある菅野沖彦氏のエッセイが掲載されていて、実はそれを読むのを楽しみにしている。
前号で菅野氏は「一期一会」というタイトルで、「我々はCDを聴くのに一期一会の気持ち(覚悟)を持って聴いているのか」という趣旨の問題提起をされていた。
これを拝読して衝撃を受けた。
「自分はどうなのか? 例えば雑誌を読みながらただ漫然と聞いて、その音楽やCDを解ったようなつもりになってないか? あるいは漫然と聞いただけで切り捨ててしまってないか?」
コンサートに行く際には、何日も前から体調を整え、わざわざ時間をかけてコンサート会場まで行き、本番が始まったら集中して音楽を聴くようにしている方は多いであろう。しかも普通の家庭とは異なる圧倒的な大音量の中で、だ。そしてほとんどの場合、その結果として「深い感動」を得ることが出来るだろう。
ではCDではどうなのだろう?
ここで、菅野氏のエッセイを振り返ってみる。
コンサートと同様に「一期一会の気持ち(覚悟)」を持ってCDを聴いているだろうか?
小音量で雑誌や新聞などを読みながら漫然と音楽を聞いてないだろうか?
たった一度しかそのCDを聴くことが出来ないと思って、きっちり音楽と対峙して聴いたら、コンサートに勝る感動を得ることも十二分にあるのではないか?
もし、「ながら」で聞くとしたら、何よりその音楽やCDに対して失礼ではないか?
そんなこんなで深く反省するこの頃。