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“望むもの”と“望まれるもの”

この4月20日に5年ぶりにポール・サイモンの新作がリリースされました。
発売日に購入し、まさしに渡しました(勿論、僕も聴きました)。
http://www.amazon.co.jp/ソー・ビューティフル・オア・ソー・ホワット-ポール・サイモン/dp/B004LPHVRK

個人的には1975年に発表された「時の流れに」はポール・サイモンの最高傑作だと思うし、グラミー賞の最優秀アルバム賞3度目に輝いた1987年発表の「グレイスランド」も素晴らしい出来だと思っています。
ただその後の彼は迷走していると個人的には感じてきました(勿論、それなりに素晴らしいアルバムは発表し続けては来ましたが)。
おそらくまさしや僕らCDを制作し続けている側が抱いている不安と恐怖をポール・サイモンも共有していると常々思っていました。

音楽を制作する側、特にポップスの場合は、新しいこと、誰もやったことがないことをやろうとすることが、創作・制作への原動力になっていることは紛れもない事実です。これこそが“望むもの”であり、リスナーの方々から“望まれるもの”とは直接関係はありません。
例えば「精霊流し」のような曲を作ることは、創作上の気持ちの上では退化につながります。「秋桜」のようなものも、「風に立つライオン」のようなものであっても、です。この「〜のようなもの」が「くせもの」なんです。
“望むもの”と“望まれるもの”との間に立つことも僕の仕事のひとつではありますが、見方を変えれば(他人の作った作品を聴くという面からは)まさしや僕はリスナーでもあります。

ポール・サイモンの音楽の特徴は一見正反対のベクトルを持ったものが混在することにあると思います。メロディックなもの、リズミックなもの、バロックのようなもの、現代音楽のようなもの、民象音楽のようなものなど、彼の音楽の多様性には驚くばかりで、しかも決してひとつのところに留まるようなことはありません。常に音楽的に裏切り続けること(同じようなものを作らないこと)が彼の信条なのかもしれませんが、リスナーとしては残念に思うことも無くはありませんでした。
というのは、まさしも僕も彼の最大の美点はウェットさであったり、儚さであったり、叙情性と哲学性の融合とそのバランスであったり、美しさであったり、と認識しているからです。僕らは(勿論、個人的にです)近年のポール・サイモンはリズミックな方向に行き過ぎていると感じてきました。
そして先日ニュー・アルバム「ソー・ビューティフル・オア・ソー・ホワット」が登場しました。相変わらず新しいことに挑戦しながらも、彼の美点が近年以上に詰め込まれています。
とまぁ、こんな風にバックグラウンドをそれぞれの胸に秘めながら、ポール・サイモンのニュー・アルバムのことを、今年の1月以来続いているレコーディングの合間にまさしと語り合いました。

7月6日発売予定のまさしのニュー・アルバム「Sada City」はリスナーの方々からはどのように評価されますでしょうか・・・。
一昨日でオケは全て終わりました。今後、作品の煮詰め、歌入れ、エディット、ミックス・ダウン、マスタリングを経て完成へと導かれます。
これから3週間ほど、まさし、僕、エンジニアたちの共同作業が続きます。

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